テキスト1964
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精神.てある。—今日の花道を考えて見ると、伝統の古いいけばなと、近代的な新しいいけばなの二つに大別される。伝統の立花(りっか)と、生花(せいか)は、今日現在に行われている花進の中で、一割程度、活けられているものと思っ。大部分の人達は瓶花盛花を今日の花として作っておること伝統芸術と創作4桑原専渓となる。立花と生花は伝統の歴史をもっておるのみでなく、昔から定った形式と約束を守って、それがあるがためにそのいけばなの価値があると信じられて居る。その定った形式が伝統いけばなの香りであり、また、それ故にこそ、興味をもたれておる次第でもある。普通一般に伝統花道と云うものは型のいけばなであり、その中に自由創作は認められないものと思われ易い。これは、同じ境地にある能や狂言と同様であるが、花道の場合、立花や生花に作者が、自分の思うままの工夫や花形創作が出来ないかと云うと、決してそうではない。いかにも、自由のない型のいけばなと思っのは、それを深く研究しない人か、伝統いけばなの本当のものを知らない人達の皮想的な見方に過ぎないものである。立花は、封建思想の盛んな江戸時代に、形式を尊重してなり立った花道てあるが、その作品をふり返って考えて見ると、始めは形式を厳重に守らせ、段々と技術が向上するにつれて、その作者の自由意思に依って花型を作り変えることが出来、或は形式を全然離れて、自然の草木の形を花器にうつすことに重点を置いて、いわゆる作家自身の創作を奨励している。生花においても、花型は流俄の形を定めて、それに乗って練習を進行させ、その形の中に自然の花材との融和調節をはかろうと考えている訳てある。いけばなは、古いもの新しいもののいづれにしても、必ず自然草木を材料とし、その草木のもつ枝葉花の形を、どの様に組み合せ、どんなに利用して花器に調和させようかと云うことが中心になる。伝統いけばなには形が定っており、自由奔放にのび、枝葉をひろげた花材を、どんなにして、定型の中におさめるかと云うことに問題が起る。或る場合には自然の枝葉の自由な形を活かすこと重点をおいて、約束の花型を超越して、新しい形を作り上げることもあり、ごの辺りに、伝統花の創作が生れて来る。型は定っておるが、必ずしも、型にとらわれることなく、自然の草木を材料として用いる以上は、自然の形に副って、伝統の定型から離れても、自然を活かす花形を作ろうぢやないかと云うのが、立花生花の創作他の伝統芸術と異る点はここにあり、花遍はいつも自然の、のびのびとした草木材料を正しく活かし、働かすことを考えると共に、自然の枝振りや、花葉の姿を、伝統の花形と如何に調節をはかろうかと考えるところに創案が必要とされ、伝統の型を守るだけては、どうにも処理するごとの出来ない塙面が、必然的に生れて来るもの.てある。伝統のいけばなに対し、一般のいわゆる「垣のぞき」をする人達は、伝統の花道は「糊つけもの」と批判されることも多いが、これは甚だしい皮想観.てあって、最初に話した様に、伝統花道は一定のルールを定めてそれを尊重しつつ、自然との調和に依って創造をして行こうと考えるもの.てある。ごの伝統のルールを研究し、技法の練習をする期間は、相当に永い時日を要する。その練磨の期間を踏み越歪て、立花生花の創作に入ることとなり、ここに芸術的な栴調の高い作品が生れるごととなる。植物の芸術として、世界的に独特な手法をもつ、日本の伝統いけばなを再認職する必要があるのではないか。1本の花て花器にしっくりのる様に活けるのはむづかしい。2本になると少し活け易くなる。最小限ぎりぎりに必要なものを,美しい技巧で活ける。—小品花の生命である。① 毎月1回発行桑原専慶流No. 21 編集発行京都市中京区六角通烏丸西入桑原専疫流家元いけばな1964年8月獲行

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