テキスト1964
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吉川英治氏作「宮本武蔵'一を読む。武蔵が笠置に近い柳生谷に住む、柳生石舟斉より使のお遥が持って来た芍薬の花の切り口を見て.その切り口の美事さに‘恐らく相当な腰の刀(もの).て非凡な達人が一気に切り放った、その情景を推察して、石舟斉の武芸の深さを知ったー!と云うくだいがある。中々面白い話なので.段々,'j考えて見ると私達の花道の中にも.これにつづく様な話が数々あるの.て‘思いつくま言に書いて見よう。切り口の美しさ.するどさこ云うごと似、その切れものが特に優れている場合と切る人の手練手なみか.優れていると云う均合に、出来ることである。この武蔵の小説に依ると、武芸の達人であればこそ.花を切るにもその名人の心があらわれていると云うごとになるのだか.いけばなの専門的な立場から、私ガ今.言えることもこれと同様なの.てある。伝統の花.立花(りつか)を作る場合には太い木の幹を切り、或はけづる場合が多し。例えば、文っすぐな松の幹の(直径七.八センチの)切ると云うこと専疾足もとを、丁度、鉛筆の先の様にけづる騎。ただ美しくけづり尖らせることを考えては、決して美事なけづり方は出来ない。一刀両断と云う、あの言葉にある様な気はくと、一度.て誤りのない錠(なた)の振りおろし方によってこそ、美しい切り口が作れるものてある。高さ十尺程もある太い直立の幹を左手て、_)ぶっすぐに立てながら、右手てちようと打つ、あの心鯰充分の鍛煉と確信があって始めて美しい切り口が作れるものである。普近のいけばなの均合.ても、美しい切り口は.その作者の技巧と、確信が感じられる。よく切れる花鋏て不必要な枝葉を切り落して行くとき、切った後の成算と自信があってこそ、手早く力強く切ることが出来、そこにはためらいもないに違いない。従って切り口似鋭く美しいと云うこととなる。ごれはきものや服地の裁断ても同じこと.てないかと思う。よい仕事をするために似正しい決断こ自信かいる。恐?く花鋏の音も裁断はさみの音も明快に、軽やかな音を立てることであろう。私が小学校の二年生のとき層その学年の始めの日に.校長先生が授業を受けもたれたことがあった。修身の陀間であったが、生徒に鉛筆とナイフを出させて、鉛筆をけづって御覧なさいと云うこととなって、私達は変なことをやらされるのだなあー|しc思いながら、難かしい話なきくよいもこの方が面白いと、子供達似がやがやと面白半分に鉛筆をけづって机の上に並べたが、さて、上った鉛筆を先生が一っ―つ調べたうえ‘訓ホをされた。鉛筆のけづり様に似個性があり畜技巧がある。鉛筆のけづり方を見ると、その知能と性格の差遥がよく解るものだ.と云う話をされた訳だが、私がこの永い年月をよく忘れないて、覚えているのだから余程、感銘したものに違いない。私の父(先代専渓)が.とくさの生花を教弓Qとき、その切り株の切り方が中々やか言しかった。「祇圏祭のとくさ刈山の造灼ものゎ見て来い。とくさを刈るのには、この様に鎌おもたないと刈れないものだ一ーJ教えて呉れ八ことがあった。成程.体裁だけ.て切り込んではいけないものかと、その頃の私に似忘れることの出来ない教訓となった。いけばなは目に見弓やJごろだけが美しければ、それてよいものと考えられやすい。勿論、それが大切てはあるが、見えない場所に美しい技巧があることも大事な考え方である。例えば.花器の中へ入っている枝幹や茎の切り口の美しさ。荊花ては丁字留の美しいかけ方。生花ては花器の中へ人っている部分の揃王カゃ~足もと切り口の状態に依って、根じまりもよくなり~よく安定して留めることも江来、これが生花の大切な技法となっている。いけばなの名手は根もとの切り方出来を決して粗略にしないものである。日がすぎて活け花を抜いて捨てるとき、その跨に株もとを見ることとなる。見苦しい留め方や、切り口を見るし全くそのいけばな相当の技術てあることが解り.わびしい感じのするものである。普逸に見えない様な場所に、広じめな技巧のあるいけ花鯰たとえその花炉拙い形であろうとも.将来性のある作品と云うことか出来る。いけばなの稽古のときに特に注意せねばならないことだと思立花の中に「二つ真」と云う花形がある。また「株分け立て」と云う形がある。生花にも「株分けの花型」があり、盛花にも「分体花型」がある。これらの花形はいづれも一っの花型を中央より株を分ける形.てあるが.ただ、二つに分けると云う表面の問題だけてなく‘―つの花体をーロょ天より切ると云うその形式のうちに特別の技法が必要しされている。その空間の美しさと、その空間そのものの形をも考える。空間の変化も必要てあるし、そのすきあいに鋭い形も生れて来る。切ると云うことは、いけばなに必ず附泡することだが、それだけに、そのいけばなの性格を定める大切なこと*てある。アマリリスの花茎を切るとき、なれない人は必ず茎か割れる。かいうe花や葉を切るときも同じ様に中々切り方があるもの.てある。切りにくいのは、堅い木ものだけではない。柔い草花、薄い葉も中々練習がいる。要は花鋏の使い方にあるのだが、どの場合にもよく切れる鋏てあることが大切て、アマリリス、カユウの様な太い草花、ハス、カウボネの様な柔い水草の類を切るときは、花鋏を軽く草花の茎のまわりに幾度も廻して、切り傷を入れて行くと、すっぽりと美しく切れる。太い木ものは鋸を使つのがよいが、鋸のない場合は、これも幹のまわりを鋏て廻しながら、切り傷を入れて段々深くして行くと草花の様に柔かく切れる。花を切ると云うことにも.中々技巧の要るものである。数年以前に京都会館.て立花の講演会を開催したことがあった。そのとき、講師の重森三玲氏のお話の中に「立花の株分けの形式は、衷行草の草の花形であるが、その起り始ったもといを考えて見ると、―つの風景を喜りて考案されたものてある。例えば、中央に前方からずっと向うに遠く道があって、その左方には一群の樹木があり、また道の右方には別の種類の植物が並んている。これを立花の株分けに考えて見ると、左方は主株てあり、右方は別株てあって、'中央の違は株の中央の空間として形づくったものであろう」云々。こんなお話があったが、大変.面白い説なの.てここに記して置く。⑤ f>つ。

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