テキスト1964
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いけばなをうつすおはなしいけばなのおけい古のたびことに種々な変った材料を活ける。日本種の花、洋種の花、園芸栽培の花、野生の花、木もの草ものと次から次へといろいろな材料を見、それを活けて行く。そのたびごとに花材の名を覚えその季節や品種を詞べて行ったならば、一年を通じて或は三年四年と重ねて行ったならば全くよいことに違いない。更にもう―つよいことは、活けた花を写生することである。活け上った花を簡単に写生して名を記録し挿花の日を記入して置く。これは習う人達が是非、実行して欲しいことである。時々、そんな写生図を見せてもりうことがある。度ごとに写生するほどの人だから絵も中々巧いのがあって、私が更に筆を入れてなおして差し上げるが、二三十ページも重なって来ると中々楽しいもの.てある。勿論、私自身も長年月にわたって随分、た<山の花の絵を書いた。写生する場合、ペソで描く人、鉛筆てかく人、更にクレヨンで色をつけておく人、いろいろあるが、私の場合は全部が全部、毛筆画てある。先月号にテキストにのせた様な墨絵を、十五年間ほど続けてその数はと云われると改めて考えさせられる挿花写図談義専渓程、たくさん書いた。何千枚か或は万を越すのではないかと思つのだが殆んど全部、私が教えた人に一瓶一枚つつ毛筆で書いて渡したの.てあるから一寸した修行とも云えるだろう。私は決して絵が巧いのではない。特別に深く習ったのでもない。ほんの少しはづかしい程の期間、習ったのだが、生花を花瓶に活けた絵を描く場合は、以上の経験に依って妙に自信めいたものを持っている。今、私の手許に残っているのは数十枚しかないが、これは今後のテキスト誌上に時々掲載してお手並を見て頂くこととする。私がこんな自慢話の様なことを書き出したのは、皆さんがいけ花の写生をされるとき、何かの参考になるかも知れないと思っからなのだが、とにかく体験談てあるから、その中には役立つこともあろうと、いよいよ厚顔しくも筆をすすめる次第である。先づ私が深く感じたことは、あるものを見、或は聴いた場合に、その必要なことは記録することが大切てあると云うことである。花を活けてその草木の木振り、花葉の形や個性をしっかり写す。いけ花の形を写しとると云うことは、単にいけ花の外の美しさを見るだけでなく、それがどんな状態に花瓶に入っているか、葉の組み合せ、花の配列、分塁、更に色の配列を記入することは、それを何時か見なおすことが出来ること,12‘ .てもあるが、最も大切なことは、描くことに依って、そのものを見る見方が一層深くなることである。単に見るだけでなく、写しとることは心にそれを深く刻みつけることとなる。写経(しやきよう)と云う言葉がある。仏教の行事であるが、経文を写して後世に伝えるーー或は経文を写すことに依って供養や祝福を得ると云う目的のほかに、私は思つのだが、この写経に依って仏教の真精神を体得せしめようとする‘―つの手段てはないかと思つの.てある。筆をとっていけばなを写すと云うことは、作品をいよいよ深く見つめることとなるのは当然て、これは全くよい事に違いない。私は、こんなに深くも考えずに長い期間、毛筆で墨絵のいけばな写生をやった訳て、自然に勧悟をした結果になったことを、今更、気ついている次第だが、これについてもう少し詳しく具体的に書いてみよう。さきに話した様に私は絵が下手.てある。よくもこんな拙いかきものを(後に残るものを)厚顔しくも、印刷物の様に一日に五十枚も書いた日もあったが、随分、あきれたものだと今更、はづかしく思つのだが、私が毛筆と定めたのは、時間が早いごと。(一枚五分間程度で書ける)墨の濃淡に依って前へ出る枝葉、後方ヘ控えて出る枝葉を区別することが出来ること。紙を左手で軽く持って、.,`~3‘ さらさらと書くことが出来るので早い。なんとなく水墨画の様な楽しい味わいが出る。厚手の日本紙によく調和する。数がたまった場合になんとなく風雅てある。こんな点を考えて、先つ画用紙を定めた。薄手の奉書まさ紙に(月日、花名)などを印刷して置き、この大型の紙(みの判半切)を沢山用意して置き、稽古日のたびごとに、忙しい思いをしてどんどん写して行ったものであった。花をなおしてすぐ写すと云う次第である。そのために手提の硯寵を作ってそれこそ走り書きに書いた。ここで一っ面白い問題がある。私のいけばな絵は必ず実際の作品の前でないと描けない。想像図は一枚も書いたことがないし、書いて欲しいと頼まれたことも再々であったが、どうにも実物がないと描けないし、どうも艮心的てない様な気がして、何時もお断りした。今てもそれていいのだと頑固に自説をまもっている次第だが、私はいけ花の作品の前に座ると、それをそのまま写実したのではない。その前にあるいけ花を写すのだが、それと同時に、私のその作品に対する理想図を描いていたのであった。前にあるいけ花の悪いところは訂正して、理想的な正しい姿を(私の思っ)筆にのせて描いた。教育をしつつ私の理想を伝え様とした訳である。今から考えて見るとごれも京都人らしいすき好みと、頑固さが、よくあらわれていると、苦笑している次第である。技⑥ 先号に書いたが、花を活ける場合にどんなときも切り口が美しくないとよい花が入らない。美しく切るには花鋏や鋸の切れ味のよいものを使わないと、美しい仕事が出来ない訳で、これは大切なことである。切れゃんだ鋏、さきの折れた鋏、これてはお花は上手にならない、そんな花鋏を持っている人はすぐ手入をすることです。生花のみづぎわの場所に当る枝幹は、よく切れる鋏て小部分までとり去り、足もとをきっちり寄せ合す。瓶花、盛花の花葉の重くるしい所、ごみごみしたところは、茂みへ鋏をさし入れて他の場所へ影響しない様に一度てすっと切りとる。切れ味のよい鋏が要る。(カユウ)や(アマリリス)の様な太い茎の草花の根もとを切るとき、(ツルモドキ)(ユキヤナギ)(コデマリ)の様な細部の手入がいる材料にも、切っ先のよくきく鋏が必要てある。これは晋通のいけばなてはないが(立花)は太い幹を組み合せて花型を作ることが多いので、枝の切断面を美しく切って切り口と切り口を密着させることが多く、こんな場合には道具のよしあしが花型に影響して来る。(はす)(はまおぎ)(ダリア)の様に茎の太い夏の草花は、切りロを熱湯て煮いて水揚をする。株もとヽヽ巧(1)

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