テキスト1964
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戦争直後の昭和二十年+月、小原豊雲先生と京都てお会いした。お互いに無事でよかった.てすなあー、と云う頃だったから、とに角、さんざんたたきつけられた花道界の復興のために努力しましよう、と云うことになって、その年の十一月、京都大丸て小原さんと私、中山文甫氏、井上覚造氏、宇野三吾氏の5名が集り(三芸展)と云う会名で、いけばな、洋画、陶芸の綜合展を開催した。これは干からびた戦争直後のことだったの.て大変評判がよく、引きつづいて翌冬の一月、大阪大丸で同じメンバーで展覧会をひらくこととなった。まだ花屋にも材料が殆どなく、農園にも花の姿などとても見られない頃だったから、花展の材料は専ら足でさがし出すより致し方がなかった。大阪展の近づいた一月の某日、小原さん、中山さん、私の3人が芦屋の山へ登って材料を採集したことがあった。その日の芦屋山の風景はいつまでも忘れ得ない強い印象を、私の心に焼きつけたものであった。専渓戦争終末の頃の芦屋は爆撃のために街の半ばが破壌され、町を歩いて見ると5メーター程の町筋をへだてて、東側より何キロとなく焼失し、この道から西側は殆ど被害を見られない様なところもあった。芦屋川にそうて小高い丘陸地帯に登ると、神戸湾を一望に見渡せる丘に出る。このあたりは一面の焼野原に、木も草も群る石塊さえも焼け焦げて、見渡す限りは黒く焼けただれて木も草も炭穀(すみがら)の様になっている。何キロと丘のつづく限り黒々とした焦土であった。その焼あとの黒い土に焼夷弾の四角い筒が幾千、幾万と突きさされて目路のつづく限りこの風景が続いている。私は茫然としてただ足もとをふりかえるのみであった。二三の材料を集めて山を下ったのだが、火の中から飛び立つと云う火の鳥(フエニックス)の物語をそのままに思い起されて、深い感動をうけたものであった。大阪大丸の第2回三芸展は1月の下旬に開催された。大阪市内もまだ焼け跡そのまま.て、心斉橋かいわいは建物の崩れたあと、半壌の商店が街路にくづれ落ちている状態てあった。大丸は三階までの売場て開店されておったが、電車もバスもまだ動かす、大阪駅から心斉橋まで、私は、その会期中毎日あるいて、大丸の(焦土の中のいけばな展)へ通ったのであった。私の二十オ時代は私にとっては、うっとおしい時代てあった。京都六条本願寺の立花のおかかえとして、殆ど毎日の様に出入りしておったの.て、私も御立花司の卵とし御影堂、阿弥陀堂、黒書院、白書院、鴻の間、浪の間、飛雲閣と云う様な桃山時代の畳廊下や書院の中をうろうろしながら、しきりに油をとっていたもの*てあった。毎年一月九日からお七昼夜と云って報恩講の法事が始まる。なにしろ一ばん寒い季節.てある上に、火気は一切厳禁となっているので、私達の花関係の若い連中は完全に参ってしまって、何とか暖まる工夫をと智恵をしぼった結果、(花瓶運び)と云う競技会を始めることとなった。御承知の通り本願寺の本堂は実に壮大なもので、その本堂の裏側に裏堂と云う廊下が二00メーター程つづいている。道はばと云うとおかしいが、その廊下は5間程のはば広い板敷て、これが本願寺の中のメーソストリートになっている。この裏堂て大きい銅製の花瓶を持って、どれほど歩けるかと云うのが競技の要点になっていた。花瓶と云っても晋通常識て考える様なやさしいものではない。直径六0センチ、高さ一メーター、重量は約十貫もあろうと云う巨大なものである。内弟子連中が一0名ほど交代で、この花瓶を持って大廊下をェッサエッサと走る訳て、これなれば冬のさ中でも汗が出ようと云うもの.てある(花瓶運びの競技会)と云うのは、恐らくほかにない珍らしい競争だと景気よく何メーター走ったかを記録したものであった。筋力たくましい晋'.て30メーターが関の山てひどいのは5メーター位で失格と云うのもあった。さて、その嘗品であるが。これがまた中々面白い。丁度、この裏堂の入口にお供物部屋があって、仏前にお供えする棒状の落雁の菓子が、大きい長持に一ぱい入っていることを私達はよく知っているの・て、それを失敬して賞品にあてようと、頗る甘いことを考えついた。長持といってもこの頃の人達には解りにくいが、要するに大きい木の箱て側面にはいかめしい本願寺の上り藤の定紋がついている。大きさは横4メーター、高さ1メーター余りほどの大きいもので、ふたを上げるにも2人がかりでないとあけられない(花瓶運び)の競技は、2メーターしか歩くことの出来なかった私が、失格と云うことで、競技規定に依って賞品のお供物を失敬しに行く役割⑧ になった。私と悪い成績の次点のものと合せて3人が、しのび足.てお供物部屋へ行った。菓子を入れる容器はいっもの通り大型のバケッで、これに盛り上るほど頂載しようと云う計画てある。二人が長持のふたを左右からもちあげ、まん中の私が大急ぎ.て両手を箱へつつ込んで、なるべく新しそうなところをバケッ一ぱいに掴み入れる役廻りである。人の来ないうちに手早く手早く心を落つけて、箱からバケッヘ何回となく往復して、殆ど満載するまで運び入れたとき、ふたを持ち上げている2人が、(あつ)と云うなりふたの手を離した。私の両手は長持の中.て菓子を両手で握ったまま、上から押しつけるふたの重量て動きがとれないこととなった。2人とも信用のならない奴だと思いながら後を見ると、南無三、このとき大勢のお坊さん達が行列を組んで、この裏堂へ入って来たのであった。しまったと思ったがこれはどうにもならい。両手に持ち切れない程のお菓子を離してしまえば、手はやすやすと箱から離れる訳だが、責任感の強い私は最後まで、菓子を離さなかった。つまり、そのままの姿て多ぜいの人達に見つかったと云う次第である。あれからもう忘れるほど年がたった。京都の一月は冷え冷えとして毎年やって来る。私は銅器の花瓶を見るたびにあの頃を思い出すのである。鳥:銅の花瓶.て、美しい緑の小松原.ャ、あったの一月の随想火:の:

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