テキスト1963
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暑い盛りの八月の花と云いますと、まづ朝顔夕顔、それにお盆に関係の深い蓮のはなと云うことになります。蓮は四月の中旬から水面に若葉を浮べて、りとなり、紅蓮やくれん)放送原稿(NHK)ちょうど八月にはまっ盛(こうれん)白蓮(びが寺院の境内や郊外の池桑原専渓に咲き揃ってひとしを、真夏の水辺にいろどりを添えることとなります。蓮の花と云うと京都の南にあった巨椋池(おぐらいけ)のことを想い起します。今は埋め立てとなって広々とした水田に変った巨椋池干拓地も二十数年以前は日本で最も広い「出として有名な名所でありました。蓮の名所、月の名所として歌にも物語にもよく使われたこの池の面積は実に広茫八00町歩、その周囲は約四里にも及ぶ程の壮大な景観をもつ池でありました。その頃、いけばな.て蓮の水揚(みづあげ)の研究が盛ん.てありまして、私も一生懸命の勉強の頃てありますから、毎年、夏になると巨掠池へ蓮の花の採集に幾度となく行ったものです。前の夜から池の附近にある小倉村の舟宿(蓮見の舟の出るふなやど)にとまり込ん.て、朝の四時頃に起きるとすぐ船頭をたたき起して舟のり込みます。まだうす暗いうちに池のまん中ま.て乗り出すと、丁度しらじら明けとなり、それから生花につかう蓮の花を採集することとなります。まっ白い朝霧が見渡すかぎりの池の面にほのばのと見歪\芦、まこも、蓮、河骨、すいれん'鬼ばす、菱、などの水草が池の水面が見えない程、おおい重ッて紅、黄、白、緑の花と葉が入り乱れて、霧の動く中に見えかくれします。ちょうどソフトフォーカスのレンズを通して見る様にばやけた景色の中に、ざっざっと船を乗り入れ、水の中のくさむらをわけて進ませますと、蓮の葉は私達の頭の上に高くそびえ立って、花と葉の森の中をくぐって行く様に感じられたもの.てす。大きい葉の上にたまった露水がざあっと音を立て、首もとへ流れ落ち、上衣も肌衣もづぶぬれにぬれて、蓮花の花弁がばらばらと降り落ちる中をくぐり抜けて行きます。実に印象的な景色でした。舟へ花と葉を満載して六時頃に岸へ帰ると、それから蓮の水揚をすることになります。岸の近くて用意の水揚道具(炉瓦を出して熱湯を煮き、水揚薬を入れて蓮の株もとを煮きます。煮き終ると(三分間位)す入冷水にうつして風のあたらぬところに置き、山の様に採集した蓮の葉を次々と手早く煮いて行きます。この時間が一ばん忙しい時間て少し.ても早く水揚をしないと鮮度が落ちる訳.てす。蓮の葉は短いもので3尺、長いものは6尺位に切ってありますから、これを百枚も二百枚も処理することは全く大変なことなのです。水揚の終ったものは冷水にうつして風のあたらぬ様に包んで置き、半時間ほど経過してから活け始めます。池の近くの寺院のお座敷を拝借して研究のために集った人達が.それぞれ好みの葉と花を選ん.て活け始める訳てす。この様にしても繰返して蓮切りをやりましたが、今は想い出の巨椋池もなくなり、またこの頃はいけばなの考え方も変って来ましたので、蓮花の水揚などをやる人達も殆どなくなりました。全くこれは過ぎし昔の語り草なのですが、しかし、古い時代の京都には嵯峨野のすすき原や、まくずが原の萩、おぐらの蓮など野趣に富む花の名所が数多くあったごとを考えるとひとしお懐しく感じる次第てあります。今、穀倉地帯となった日椋を見ると全く現実問題につきあたって、この様な惑傷もはるかに吹っ飛んてしまう思いがします。さて、話題を変えて蓮についていろいろ話をいたしましよう。蓮は印度、マレー、中国の中部南部、日本などに多くある東洋の花.てあって、色は白、紅の花が多く、その種類も数百種に及ぶと云われております。北アメリカのオソタリオ、フロリダ、ミネソタ及テキサス東部、或は南米の北部地方には黄色の花を咲かせる蓮があり、花は淡黄色て香りが非常に高く、アメリカインデアンはこれの蓮根、果実を食用にすると云うことです。一夏のうちに五六回2 日本の蓮は紅、うす紅、白、紅白のまだらのものが名く、黄色のものはありません。中国は蓮の多い国でありますが日本のも5どは品種が異り.土質の関係から植物の病気をうけるごとが少く、この品種が日本に沢山入って来て、現在、日本に栽培されているものには中国蓮がかなり多いと云うこと.てす。これは明治初年、武田昌次と云う人が中国より持って帰って、東京、静岡などにひろげたのがその始めと云われております。現在.石川県地方に作られているものに此の種類が多く、中国蓮は日本種に較べて蓮根が大きくまる<、よく肥えているのが特徴で密り、中国の本場のものと、日本へ移植した中国種とを比較してみると土地の関係からか、形が余程変化しているそうてあbます。さて、蓮と云うと普通の場合はお寺や仏様を連想いたします。これは釈尊が蓮の花を大変愛好せられたと云うこと.泥↑正中に咲きながら清浄な色と姿をもつ花であること、或は蓮のうてなに座すと云う仏教の伝説を窮極のあこがれとする等、全く宗教的な花として蓮と仏様は切っても切れぬ間柄の様てあります。お寺の境内に蓮池の多いのは以上の意味に於て浄土を表現したものと考えられるのであります。しかし、ふ灼かえって趣味の花として蓮を考えて見ますと、ごれは仏様の花だと思っている一般の人達の蓮のはなーR

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