1962
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立花(りっか)は室町時代に始って江戸時代に最も盛んであったいけばな形式でありますが、現代に於ては殆ど作る人も少くなり池坊流と桑原専慶流に伝っているのみとなbました。なにしろ数白年以前から伝っている花道てすから、その形式も伝統も、実に立派なもの.て桑原専慶の立花は特に創作を尊ぶ現代にも調和する優れた要素が沢山盛り込まれています。ここに掲載した立花は、祖「富春軒桑原専慶」の作品でありまして、元禄年間に発行された当流伝書「立花時勢粧」に収録されている作品であります。立花は室町時代より始ったいけばなてありますが江戸時代に入って全く完成し、始め武家寺院などの書院飾として用いられるのみてあったのが、この頃になって一般庶民階級の中に流行する様になりました。今曰.ては見る椴会も少くなりましたが、近年、花道各界に於てその重要性が考えられる様になり各流家元に於でも研究されて居ります。この原稿は京都市文化団体懇話会が発行する「市民芸術」より依頼されて書いた原稿.てすが、皆様の参考にもと思いごこに収録しました。能や狂言の中に立花が人っているのは皆様ご存じですか。この五月、京都会館会議場の「いけばな文化講演会」に当流立花が沢山出品されました。冨春軒茂山千五郎先生から「真奪」んばいーの写本を拝借した。花道の「立花」を仕組んだ狂言て私達花道をやるものには殊に興味の深いものである。「天下治り目出度い御代なれば彼方此方の立花の会はおびただしい事.てはないか」「さり乍、この間はよい真が無いに依て今から東山へ往て見つろうて、よい真を切っと思うが何とあろうぞ」云々、真と云うのは立花の中心になる枝みきの名称であってこの問答から考えて恐りく立花が庶民大衆の間に普及した江戸初期の狂言作品と思われるのだが、立花の花形を作る上に一番大切な真の幹を採集のために太郎冠者を伴て山へ行く姿が想像されて昔も今も、立花挿しの姿は変らないものとその置忠描写の適切なのに感、いしている。能、「はじとみ」にも立花供養と云うのがあって、特別の場合は舞台になまの花の材料て立花を立てることとなっているが、これは立花が作り上げられた完成した形を舞台で見せることとなり、狂言の「しんばい」はそれを作るための材料採集の情景描写.てある。材料集めに行く庶民の姿を描写した至って軽妙な真実のありのままの風俗を伝えているもので全く対照的で面白い。立花にか桑原専渓ぎらず活花と云うものは、作り上げた場合は整頓した美しいものだが、ーしそれを作り上げるまでの道すじは随分ややこしい工程や努力があるものである。ことに立花ともなれば材料の種類の多いのと、復雑なのと時間がかかると云うことなど相当な手数のかかるものである。近頃は段々横着になって万事花屋まかせ.て済ませることが多いが立花となると今ても中々そうは行かない。んばい」の狂言を地て行く様に、ニ三人を連れて一作ごとに山行きや農村めぐりをやって材料集めをする。材料集めと云うよりは山歩きしてそのうちにぶつかった樹木の面白さや形を見つけ出して、そこ.て出発して自分の作品を考え出すと云った方が正しいの.て、は豊富な形や扱い方の用意が必要.てあるし、常々創作して行こうとする態度が必要になって来る。伝統の型や方法は根底にしっかりあって、その上に常に新鮮な自然に対する受入態勢が肝要と云う訳てある。こんな形を作りたいと思って材料さがしに行くのは間違っている。自然にぶち当って習うのは花道ては最も大切な丁度この「しそれがために頭の中にことである。従て狂言の中でアドが「今日ったよい真が見当りましたに依って下草などを添己て持って参るがこの真を見させられたならばさぞ悦ばれる事.て御座ろう」と云って、杜若、びわ、などを添己て舞台に持って出る姿は今も昔もそのままの姿である。このごろの私達、琵琶湖を見下ろした峯の突端に立ってそれを背景にやっとさがしあてた樹の幹や技を花器におさめる様に手に持ってながめる私達の姿は、数百年前の立花挿しと少しも違わない姿てはないかと考ろる。そしてその帰るさ、あしらいの下草のつつじ、びわ、あせび、つげ、りんどう、さん菊、しやがなどをうんと持って、山を下ることも此の狂言のアドの姿と変りがない。こんなに考えて来ると数百年の隔てはあっても人の生活のある部分は変化のないものだとつくづく考える次第てある。なお茂山先生のお詰に依ると、狂言の舞台には松、びわ、かきつばたなどのなまの花を持って出るの.て杜若のない季節には菊その他の草花にかえるとの事.てある。能、「はじとみ」の舞台に立てる立花もなまの花を用いた立花.て、普通の立花瓶に花道家が委嘱されて作ることとなっている。この場合には時代考証に依って形式を定めることが必要とされている。立花師⑦ 流

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