花ふたり メッセージ 素子


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hanafutari motoko

はな五十八年

 父専溪(十三世)は明治生まれの、律義だが一方権威主義的な人だった。私はその長女として生まれ、父がいけ花を始めさせたのは六才の春からだった。それはいけ花を始めたというよりは、花に触れながら少しずつ家元という環境に馴染んでいく過程だったのかもしれない。

 自立心が芽生えた十三才から十八才までの間、頭の中では家業を継がなければならないと思っていても、その気持ちになるのはなかなか難しいものである。

 私が花道家であることを自党するようになったのは十八才で、高校を卒業すると同時に父の許しを得ていけ花を教え始めた時からである。ちょうどその頃、京都の花道家で結成する紫紅社があり、その第五回綜合展に初出品した。当時、昭和二十七年はまだ戦後の混乱期が続いていたが、花道家達は自分を励ましながら意欲的な制作に夢中になっていた。

 色々な花道展に出品しながら二十二才で結婚し、三十四才でこの結婚生活は破綻してしまったが、いけ花活動を主軸に目まぐるしい毎日であった。昭和三十一年いけばな世紀展の折には受賞、またその後いけばな百人展と毎年開催される出品に慌ただしく歳月は過ぎていった。二十五才で東京の大森に住居を移し、弟子を教えながら東京の花道家との交流が始まる。渋谷東横デパートでのいけばな美術展で特選受賞を受け、また知名人とのいけ花女流展に発表したり、婦人雑誌、週刊誌にも取り上げられもした。その後京都に帰り、私の流の運営に参加し、流展、個展等、育児の世話とともに大変多忙な時期であった。京都の華道京展にも毎年出品していた。

 三十六才で仙溪と結婚後、初めてNHKの婦人百科を二か月間担当する。そして仙溪・素子二人展を京都朝日会館で隔年に開催しながら充実した日々を送ってきた。

 父とはいけ花への希求は同じではない。若い頃オヴジェ的な創作花も作った。いろいろな経験を経て、今確かにつかめたことは、いけ花本来の自然を基礎にした精神的な心の拠りどころ、自然への回帰、その草木の美しさを肌に感じいとおしみながら、これからもずっといけ続けていこうと思う。今回皆様の御力添えで出版させて項きほんとうに幸せである。

   一九九一年十一月

      桑 原 素 子     


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